島津 久光 ジゴロ 10

?-1227 | 忠時1227-1265 | 久経1265-1284 | 忠宗1284-1318 | 貞久1318-1363 | 総州家と奥州家に分裂, 師久1363-1376 | 伊久1376-1404 | 守久1404-????

All Rights Reserved. ?-1494 | 忠良1494-1526 | 相州家相続, 用久???

?-1417 | 久林1417-1430 | 断絶, 氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在, 久長1281-1317 | 宗久1317-1354 | 親忠1354-1371 | 久義1371-1422 | 勝久1422-1433 | 教久1433-1442 | 犬安丸1442-1458 | 久逸1458-???? | 忠興??? 島津久光公実記. まだ意味とかわかってませんよね? ?-1525 | 実久1525-1553 | 義虎1553-1585 | 忠辰1585-1595 | 断絶, 久光1871-1887 | 忠済1888-1915 | 忠承1915-1990 | 忠広1990-現在, 忠興1610-1637 | 久雄1637-1663 | 忠高1663-1676 | 久寿1676-1690 | 惟久1690-1723 | 忠雅1723-1753 | 久柄1753-1785 | 忠持1785-1816 | 忠徹1816-1839 | 忠寛1839-1896 | 忠亮1896-1909 | 忠麿1909-1926 | 久範1926-1944 | 忠韶1944-1973 | 忠範1973-現在, ただし、西本誠司は「島津義弘の本宗家家督相続について」の脚注中で元和2年(1616年)に建立された, 佐竹家(与力の岩城・芦名らを含めると80万石)を加え「豊臣六大将」という場合がある。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=島津氏&oldid=80420834. 日本語検定は1級を既に取っており、中国語もいまだ2級を挑戦するレベルに至っていないため、私は両検定ともパスです。, 今回の大河ドラマ考は、いささか強引ですがフランス語。ジゴロ(gigolo)は外来語というほどには浸透していないものの、日本で言うところの「すけこまし」。, 第22回(6月10日本放送)のサブタイトル「偉大な兄、地ごろな弟(第22回)」において、「兄」とは島津斉彬・西郷隆盛を、「弟」は島津久光・西郷従道を指す・・・という事は読めたのですが、どうも久光・従道はgigolo(ジゴロ)ではありません!, 「地五郎」とも漢字表記する方言で、(生え抜き間も知れないが)地元しか知らない田舎者を指すそうです。, さすがに西郷でも、主家筋の久光に「ごろつき」と申す訳はないだろう・・・と思いましたら、若干はポジティブな言葉だったのですね。, それでしたら、西郷信吾(従道)のその時点での状況とも合っています。更には、「優秀」という意味で今後の久光・信吾の歴史的活躍も示唆しているのかもしれません。, 些か短い記事になりましたが、兎に角内容が希薄。「あの西郷」とか「西郷という名前が独り歩きしている」などと台詞で説明するよりも、「なぜ西郷が偉大なのか」といったところをしっかりと描写して頂きたいものです。, 島津久光・西郷信吾は「ジゴロ(仏 gigolo)」ではないらしい(大河ドラマ考305西郷22) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義, ・歴史旅行記や言葉(日本語・フランス語・ドイツ語など)へのこだわりや検定・歴史散策などの実践録を書き綴ろうと考えています!. ?-1459 | 国久1459-1498 | 成久1498-???? ?-1494 | 忠良1494-1526 | 相州家相続, 用久??? ?-1227 | 忠時1227-1265 | 久経1265-1284 | 忠宗1284-1318 | 貞久1318-1363 | 総州家と奥州家に分裂, 師久1363-1376 | 伊久1376-1404 | 守久1404-????

変な質問でごめんなさい。2年前に結婚した夫婦です。それまで旦那は「専門学校卒だよー」って言ってました。 島津久光は維新後も封建制度にこだわってたらしいけど自分やその子供や孫をショーグンにしたかったのかな もし新政府の中枢の人物が不慮の事故や病気、暗殺などで多くが死んで久光が主導権を握ってたら明治維新はどうなってたのかな 島津久光の嫡男。27代斉興の孫。 維新後、公爵。 30 島津忠重 - 公爵。姉は邦彦王妃俔子。香淳皇后の叔父。海軍少将。 31 島津忠秀 - 水産学者。香淳皇后の従弟。 32 島津修久 - 照国神社 宮司。近衛文麿の孫にあたる。細川護煕はいとこ。 17代当主について. 他の巻号を探す

| 久世??? 世間のイメージとはそういうものなのでしょうか?. 島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主。, 位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。, 島津家第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。, 文化14年(1817年)10月24日、薩摩国鹿児島郡(現鹿児島県鹿児島市)の鹿児島城において誕生する。生母は斉興の側室・お由羅の方。幼名は普之進(かねのしん)。生母・お由羅の身分が低く、文政元年(1818年)3月1日に種子島久道の養子となり、公子(藩主の子)の待遇を受ける[注釈 1]。 第22回(6月10日本放送)のサブタイトル「偉大な兄、地ごろな弟(第22回)」 において、 「兄」とは島津斉彬・西郷隆盛を、「弟」は島津久光・西郷従道を指す ・・・という事は読めたのですが、どうも久光・従道はgigolo(ジゴロ)ではありません! お願いします。, ママ友との会話で旦那が工場勤務とか土方は嫌だよね〜って話題になりました。そのママ友には言っていないのですが旦那が土方仕事をしています。 ”そうせい”の毛利敬親と”ジゴロ”の島津久光はホントのところどうなの?名藩主?迷藩主?ご意見お願いします。 道の駅の件、僕は話をしに行ったけど、スルーされました JPEG表示, *アクセスキーの場合は、表中に「*」をつけています。 後の巻号→, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781553/2, コンテンツを閲覧する為にはJavascriptをONにしてください。 Copyright © 2011- National Diet Library. 生活保護申請したいのですが、どうやったらいいですか?, 40代で30万円の貯金ってすごいんですか?先日、同棲してる彼氏が『親が30万円の貯金があるからスポーツカー(WRX)買うらしい』と言ってきました。それも自慢げに。 AKが銃なのであれば、どういう所がすごい銃なのか教えて頂きたいです! 文政8年(1825年)3月13日に島津宗家へ復帰し、4月に又次郎と改称する。, 同年11月1日、島津一門家筆頭の重富島津家の次期当主で叔父にあたる島津忠公の娘・千百子と婚姻し、同家の婿養子となる。これを機に鹿児島城から城下の重富邸へ移る。文政11年(1828年)2月19日に斉興が烏帽子親となり元服、忠教(ただゆき)の諱を授かる。天保7年(1836年)2月、千百子と婚礼の式を挙げる。天保10年(1839年)11月に重富家の家督を相続し、12月に通称を山城と改める。弘化4年(1847年)10月、通称を山城から周防へ改める。, 斉興の後継の地位をめぐり、斉彬と忠教の兄弟それぞれを擁立する派閥が対立してお家騒動(お由羅騒動)に発展した結果、幕府の介入を招来し、嘉永4年(1851年)2月2日に斉興が隠退、斉彬が薩摩藩主となる。島津氏家督の座を争うかたちにはなったが、忠教自身は反斉彬派に担がれたという要素が強く、斉彬と忠教の個人的関係は一貫して悪くなかったとみられる[注釈 2]。また忠教は斉彬と同様、非常に学問好きであった。ただ、蘭学を好んだ斉彬と異なり、忠教は国学に通じていた。, 安政5年(1858年)7月16日に斉彬が死去すると、遺言により忠教の実子・忠徳が12月28日、藩主に就任する(忠徳は翌年2月、将軍・徳川家茂に謁見し、その偏諱を授かって茂久と改名。後の忠義)。茂久の後見を務めた斉興が安政6年(1859年)9月12日に没すると、藩主の実父として茂久の藩内における政治的影響力が増大する。文久元年(1861年)4月19日に宗家へ復帰、「国父」の礼をもって遇されることになり、藩政の実権を掌握する。23日、通称を和泉、諱を久光に改める。文久2年(1862年)2月24日、重富邸から新築の鹿児島城二の丸邸へ移る(以後、藩内において「副城公」とも称される)。, 藩内における権力拡大の過程では、小松清廉(帯刀)や中山尚之介等とあわせて、大久保利通・税所篤・伊地知貞馨(堀仲左衛門)・岩下方平・海江田信義・吉井友実等、中下級藩士で構成される有志グループ「精忠組」の中核メンバーを登用する[注釈 3]。ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは終生反りが合わず、文久2年(1862年)の率兵上京(後述)時には、西郷が無断で上坂したのを責めて遠島処分(徳之島、のち沖永良部島に配流)にし、藩内有志の嘆願により元治元年(1864年)に西郷を赦免する際も、苦渋の余りくわえていた銀のキセルの吸い口に歯形を残したなどの逸話があるように、両者のあいだには齟齬があり、最後まで生涯にわたり完全な関係修復はできなかった。, 江戸に送られた伊地知貞馨は文久元年(1861年)12月、芝の藩邸を燃やして参勤交代は不可能と申し開きをした。また有力大名を通じて久光を無位無官の島津三郎から待遇を改めさせようとした。それらは上京工作を行うためで近衛忠煕と近衛忠房へは勅命獲得の周旋を依頼して、家来の中山尚之介と大久保利通を京都へ送った。波平行安の剣を朝廷へ内献した中山だが、安政の大獄で幕府の鉄槌を食らっていた忠房は消極的に拒絶をした。大久保も京都で工作したが勅命は貰えなかった。しかし薩摩は拒絶にかかわらず上京する決意を固めていた。中山の復命時には孝明天皇よりの宸翰、御製の和歌がもたらされた。, 文久2年(1862年)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する(3月16日鹿児島発、4月16日京都着[注釈 4])。朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を企図する久光の運動は、亡兄・斉彬の遺志を継ぐものとされた。京都滞在中の4月23日、伏見(現京都府京都市伏見区)の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を粛清する寺田屋事件を起こす。, 朝廷に対する久光の働きかけにより5月9日、幕政改革(自身を幕政参画)を要求するために勅使を江戸へ派遣することが決定され、勅使随従を命じられる。幕府への要求事項として、以下の「三事策」(1.は長州藩、2.は岩倉具視、3.は薩摩藩の各意見を採用したもの)が決められた。, 出府に先立って5月12日、通称を和泉から三郎へと改めた[注釈 5] 上で、21日に勅使・大原重徳に随従して京都を出発、6月7日に江戸へ到着する。当地において勅使とともに幕閣との交渉に当たり、7月6日に慶喜の将軍後見職、9日に春嶽の政事総裁職の就任を実現させる(文久の改革)。, 勅使東下の目的を達成した[注釈 6]ことで、8月21日に江戸を出発、東海道を帰京の途上、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)でイギリスの民間人4名と遭遇し、久光一行の行列の通行を妨害したという理由で随伴の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件が起こる[注釈 7]。閏8月6日に京都へ到着、9日に参内して幕政改革の成功を復命した後、23日に京都を発し帰藩する(9月7日鹿児島着)。イギリス人殺傷の一件は結果的に、翌文久3年(1863年)7月の薩英戦争へと発展する。恐らくこの時が彼の絶頂期である。, 文久3年(1863年)3月に2回目の上京をする(3月4日鹿児島発、14日京都着)が、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の専横を抑えられず、足かけ5日間の滞京で帰藩する(18日京都発、4月11日鹿児島着)。しかし帰藩後も、尊攘派と対立関係にあった中川宮や近衛忠煕・忠房父子、また、尊攘派の言動に批判的だった孝明天皇から再三、上京の要請を受ける。長州藩の勢力を京都から追放するべく、薩摩藩と会津藩が中心となって画策し、天皇の支持を得た上で決行された八月十八日の政変が成功した後、3回目の上京を果たす(9月12日鹿児島発、10月3日京都着)。, 久光の建議によって朝廷会議(朝議)に有力諸侯を参与させることになり、12月30日に一橋慶喜、松平春嶽、前土佐藩主・山内容堂、前宇和島藩主・伊達宗城、会津藩主・松平容保(京都守護職)が朝議参預を命じられる。久光自身は翌元治元年(1864年)1月14日に参預に任命され、同時に従四位下・左近衛権少将に叙任される[注釈 8]。かくして薩摩藩の公武合体論を体現した参預会議が成立するが、孝明天皇が希望する横浜鎖港をめぐって、限定攘夷論(鎖港支持)の慶喜と、武備充実論(鎖港反対)の久光・春嶽・宗城とのあいだに政治的対立が生じる。結果的に久光ら3侯が慶喜に譲歩し、幕府の鎖港方針に合意したものの、両者の不和は解消されず、参預会議は機能不全に陥り解体、薩摩藩の推進した公武合体運動は頓挫する。久光は3月14日に参預を辞任、小松帯刀や西郷隆盛らに後事を託して4月18日に退京する(5月8日鹿児島着)。, 久光が在藩を続けた約3年間に中央政局は、元治元年(1864年)の禁門の変(7月19日)、第一次長州征討、慶応元年(1865年)の将軍進発[注釈 9](5月16日)、条約勅許[注釈 10](10月5日)、慶応2年(1866年)1月21日の薩長盟約の締結、第二次長州征討、将軍・徳川家茂の薨去(7月20日)、徳川慶喜の将軍就職(12月5日)、孝明天皇の崩御(同月25日)、慶応3年(1867年)の祐宮睦仁親王(明治天皇)の践祚(1月9日)、等々と推移する。この間、慶応2年(1866年)6月16日から20日にかけて、イギリス公使ハリー・パークスの一行を鹿児島に迎えて、藩主・茂久と共に歓待し、薩英戦争の講和以後続く薩摩藩とイギリスの間の友好関係を確認する。, 慶応3年(1867年)の4回目の上京(3月25日鹿児島発、4月12日京都着)では、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに四侯会議を開き、開港予定の布告期限が迫っていた兵庫(現兵庫県神戸市)開港問題[注釈 11] や、前年9月の再征の休戦(事実上の幕府の敗北)以来保留されたままの長州処分問題をめぐり、四侯連携のもとで将軍・慶喜と協議することを確認する。しかし、5月14、19、21日の二条城における慶喜との会談では、長州処分問題の先決を唱える(寛典処分を意図する)四侯に対して、慶喜は対外関係を理由に兵庫開港問題の先決を主張する。同月23、24日の2日間に及んだ朝議の結果は、2問題を同時に勅許するというものだったが、慶喜の意向が強く反映され、長州処分の具体的内容は不明確であった。この事態を受けて、慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩指導部は武力倒幕路線を確定する。, 病身の久光は8月15日に大坂へ移り、9月15日に帰藩の途に就く(21日鹿児島着)。10月14日に久光・茂久へ討幕の密勅が下され、また同日の徳川慶喜による大政奉還の奏請を受けて翌15日、朝廷より久光に対し上京が命じられる[注釈 12] が、病のためそれに応じられず、代わって藩主・茂久が11月13日、藩兵3,000人を率いて鹿児島を出発、途中周防国三田尻(現山口県防府市)において18日、長州藩世子・毛利広封と会見し薩長芸3藩提携による出兵を協定して、23日に入京する。その後、中央政局は王政復古、戊辰戦争へと推移した。, 維新後も鹿児島藩(薩摩藩)における権力を握り続けたが、自身の想像とは全く違う展開を続ける新政府が進める急進的改革に批判的立場をとり、また藩体制の改革を要求する川村純義・野津鎮雄・伊集院兼寛等の戊辰戦争の凱旋将兵(下級士族層が中心)と対立し、抗争をする。この権力闘争に敗北し藩行政を彼らに握られてしまう(ここで下克上が達成されてしまった)。明治2年(1869年)2月、勅使・柳原前光が大久保利通を随伴して鹿児島に下向、その働きかけに応じて上京し(2月26日鹿児島発、3月2日京都着)、3月3日に参内、6日に従三位・参議兼左近衛権中将に叙任される(13日京都発、21日鹿児島着)。, 明治3年(1870年)1月から2月にかけて、久光と西郷隆盛へ上京して政府に協力する[注釈 13] よう促すため、大久保が東京から帰藩するが、自身が利用されただけであり、騙された形で作り上げられた政府に不満をもつ久光と西郷を説得できず、両者の引き出しに失敗する。同年12月、勅使・岩倉具視が大久保等とともに鹿児島に下向し、久光および西郷に上京を要請する。西郷は上京に同意するが、久光は病を理由にその猶予を願う。明治4年(1871年)2月に鹿児島・山口・高知3藩の兵力で編成される御親兵の設置が決定すると(これは久光からしてみると致命的な失策であった)、出兵準備のため西郷が東京より帰藩し、久光に代わって知藩事・島津忠義が4月に西郷とともに上京する。, 西郷や大久保らが主導するかたちで、同年7月14日に騙し討ちのように廃藩置県が断行されると、これに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせる。旧大名層の中で廃藩置県に対してあからさまに反感を示した唯一の例になる。しかし、権力の源泉である兵士を御親兵に奪われ、行政権も既に奪われておりどうにも(この程度の抗議しか)できず、後の祭りであった。9月10日に政府から分家するよう命じられ、島津忠義の賞典禄10万石のうち5万石を家禄として分賜される(玉里島津家の創立)。, 11月14日に都城県が設置され、旧藩領が鹿児島県と都城県とに大きく分断されると、「薩隅分県」は長州の陰謀だと疑い、また、自身の鹿児島県令就任を希望する[注釈 14]。, 明治5年(1872年)6月22日から7月2日にかけて、明治天皇が西国巡幸の一環として鹿児島に滞在した[注釈 15]ことを受けて、6月28日に政府の改革方針に反する守旧的内容を含んだ14カ条の意見書を奉呈する[注釈 16]。, 明治6年(1873年)3月に勅使・勝安芳(海舟)および西四辻公業が鹿児島に下向、その要請に応じて上京する(4月17日鹿児島発、23日東京着)。5月10日、麝香間祗候を命じられる。12月25日、内閣顧問に任じられる。明治7年(1874年)2月、佐賀の乱の勃発を受けて、明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため、鹿児島に帰郷する(2月14日東京発、20日鹿児島着)。4月、勅使・万里小路博房および山岡鉄太郎(鉄舟)が鹿児島に派遣され、その命に従って帰京する(4月15日鹿児島発、21日東京着)。同月27日に左大臣となり、5月23日には旧習復帰の建白を行うが、政府の意思決定からは実質的に排除される。, 明治8年(1875年)10月22日、左大臣の辞表を提出、27日に許可される。11月2日、麝香間祗候を命じられる。明治9年(1876年)4月、鹿児島に帰郷する(4月3日東京発、13日鹿児島着)。, 以後、鹿児島で隠居生活を送り、島津家に伝わる史料の蒐集、史書(『通俗国史』等)の著作・編纂に専念する[注釈 17]。また、依然として政府による廃刀令等の開化政策に対して反発を続け、生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかった。, 明治10年(1877年)2月に西郷隆盛らが蜂起して西南戦争が勃発すると、政府は久光の動向を憂慮して勅使・柳原前光を鹿児島に派遣し上京を促したが、久光は太政大臣・三条実美への上書において中立の立場にあることを表明、代わりに四男・珍彦、五男・忠欽を京都に派遣する。また戦火を避けるため、桜島に一時避難している。, こののちも政府は久光の処遇に苦慮し、叙位・叙勲や授爵において最高級で遇した。政府は久光に気を使っていたが、西郷と大久保が死んだあとはそれもなくなった。そして最後まで西郷、大久保に騙されたと言い続けたといわれている。, 明治20年(1887年)12月6日に死去、享年70。国葬をもって送られたが、東京ではなく鹿児島での国葬となったため、葬儀のために道路が整備され、熊本鎮台から儀仗兵1大隊が派遣される。玉里家(公爵)は七男・忠済が継承する。, 忠久??? 結婚したことを後悔しています。私と結婚した理由を旦那に聞いてみました。そしたら旦那が「顔がタイプだった。スタイルもドンピシャだった。あと性格も好み。」との事です。

島津久光の肖像と解説。 島津久光 しまづ ひさみつ (1817〜1887) 現在のカテゴリー: 生年月日順:1810年代 [ 前の人物 | 次の人物 ] 島津久光・西郷信吾は「ジゴロ(仏 gigolo)」ではないらしい(大河ドラマ考305西郷22). 第22回(6月10日本放送)のサブタイトル「偉大な兄、地ごろな弟(第22回)」 において、 「兄」とは島津斉彬・西郷隆盛を、「弟」は島津久光・西郷従道を指す ・・・という事は読めたのですが、どうも久光・従道はgigolo(ジゴロ)ではありません! ←前の巻号

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」[1])を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩島津氏を本流とした記述である。他に鎌倉以来、越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏、播磨島津氏、などの支流が存在する。, 島津家の家祖・島津忠久が鎌倉殿・源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国の3国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の4ヶ国を有する守護職に任じられて以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代以降、薩摩藩主・島津氏は徳川将軍家と特別な閨閥家となり、幕末期に近代化を進めて雄藩の一つとなって明治維新の原動力となり、大正以降は皇室と深い縁戚関係を結ぶに至る。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられる。これにより鎌倉以来明治時代に至るまで家を守り通すことに成功した。また、越前、信濃、駿河、若狭、播磨、近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏、播磨島津氏、江州島津氏と呼ばれている。, 島津姓については、諸説ありとし、忠久が元暦2年(1185年)8月17日[2]近衛家の領する島津荘の下司職に任じられた後、文治元年(1185年)11月28日文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については、『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている。, 同じく九州の守護に任じられた島津忠久と豊後の大友能直に共通していることは、共に後の九州を代表する名族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の側室であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていることだろう。忠久は摂関家の家人として京都で活動し、能直は幕府の実務官僚・中原親能の猶子だった。この当時、地頭に任じられても遠隔地荘園の荘務をこなせる東国武士は少なかったと見られ、島津氏も大友氏も軍功ではなく荘園経営能力を買われて九州に下っている形が共通している[注釈 1]。, 忠久の実父については諸説あり、頼朝の実子であり惟宗広言の養子であったとする説以外に、広言の実子であるという説があるが、通字の問題などから広言の実子説については近年疑問視する説もある。, 鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝より、元暦2年(1185年)忠久はわずか6才[3]で当時日本最大の荘園・島津荘地頭職に任命されて以降、薩摩・大隅・日向の守護職、ほどなくして越前の守護職も追加される。文治5年(1189年)には源頼朝率いる鎌倉幕府軍による奥州征伐では東北遠征に10才で従軍している。忠久は鎌倉幕府内で特別な御家人であったが、建仁3年(1203年)頼朝亡き後起こった比企能員の変に連座し一時、守護職を失うことになるが、後に薩摩・大隅・日向の守護職を回復している。, 忠久の長男である島津忠時は承久の乱では鎌倉幕府方の有力武将として相当の武功を挙げたとみられ、薩摩国・大隅国・日向国の他、若狭国守護職や伊賀国・讃岐国・和泉国・越前国・近江国など各地の地頭職も得るなど鎌倉幕府でも巨大な御家人となる。また乱の際に使用した太刀は「綱切」と号されて、源氏の白旗、忠久の大鎧と共に島津宗家当主が所用すべき重宝として相伝することとなった(『西藩野史』)。乱後、忠久は越前国守護職に補せられ、計五ヶ国を有するなど鎌倉幕府内でも筆頭守護人となる。1227年(安貞元年)、忠久の死去に伴い嫡子忠時が島津氏2代当主の座を継ぎ、所職を相続したが、越前国守護職はほどなくして後藤氏に交替している。, 忠久以降の島津氏は幕府の有力な御家人の常として当主は鎌倉に在住し、現地における実際の差配は一族・家人を派遣し、これに当たらせていたが、3代・島津久経が元寇を機に下向して以来一族の在地化が本格化し、4代・島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。, やがて鎌倉幕府の力が衰えて倒幕の機運が高まると、1333年(元弘3年、正慶2年)に5代・島津貞久が後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加する。貞久は九州の御家人とともに鎮西探題を攻略し、鎌倉幕府滅亡後には初代・忠久以来の大隅・日向の守護職を回復した。その後建武の新政が崩壊すると、建武政権から離反した足利尊氏が摂津国で敗れて九州へ逃れてきたため、少弐氏と共に尊氏を助け、筑前国多々良浜の戦い(福岡県福岡市)で菊池氏ら後醍醐天皇の宮方と戦うなど、九州武家方の有力大名として活躍する。しかし、南北朝時代の1342年(南朝:興国3年、北朝:康永元年)中期に南軍の征西将軍として派遣された懐良親王が南九州へ入り、菊池氏と共に勢力を強大化させたため、一時は南朝方にも属するなど苦戦を強いられた。, その後、幕府方に復帰した貞久は死の直前の1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)に幕府に対して申状を送っている[4]。その中で貞久は島津荘は薩摩・大隅・日向一帯を占める島津氏の本貫であり、3国の守護職は源頼朝から与えられたもので大隅・日向の守護職は鎮西探題(北条氏)に貸したものに過ぎないとして3か国守護であることの正当性を訴えた。前述のように島津氏は比企能員の変で処罰された結果として大隅・日向の守護職を没収されたもので、貞久の主張は史実ではない。しかし、貞久のこの信念は彼の後継者や島津氏の一族・家臣団に共有されて後世に伝えられ、今日なお「島津氏は鎌倉幕府成立以来中世を通じて薩摩・大隅・日向3か国守護職を相伝し、700年にわたって3か国を領有した」という史実とは異なる認識[5]を定着させることになる[6]。, 貞久は嫡男の島津宗久を早くに失っていたため、3男の島津師久と4男の島津氏久にそれぞれ薩摩・大隅の守護職を分与し島津氏を分割継承させた。島津師久は上総介に任じられていたので、その子孫は総州家、島津氏久は陸奥守に任じられていたので、その子孫は奥州家と言われた。分割継承の後は、6代・氏久(奥州家)が水島の陣にて武家方である九州探題・今川貞世の少弐冬資謀殺(水島の変)に怒り、武家方を離反すると、同じく6代・師久(総州家)もこれに順じて武家方から離反するなど、両家は団結して島津氏に仇なす征西府と今川探題が一揆させた南九州国人一揆と戦い、やがてそれら外敵を退けることに成功した。, しかし、共通の外敵を持つ間は固い団結を誇った島津両家も、その外敵が消え去った後は、互いが最も脅威となる存在となった。, 南北朝の内乱を分割継承という形で乗り切った両島津氏であったが、打倒すべき共通の敵を失うと、互いを脅威とみなし対立を深めた。やがて7代・島津伊久(総州家)とその嫡子・島津守久が不和となり、総州家内部で内紛が勃発すると、7代・島津元久(奥州家)がこれを調停し、恩義を感じた伊久より薩摩守護職と島津氏重代の家宝を譲られ、表面上は両島津氏は再統一された。後に室町幕府にも相続が安堵された[注釈 2]。しかし、総州家が滅亡したわけではなく、両家の対立は残ったままであった。なお、この元久の頃より守護所が鹿児島の清水城へ移り、本格的に鹿児島の街が開府した。, 守護職が奥州家の元に統合された島津氏だったが、元久が嗣子無く没すると、島津一族の筆頭であった伊集院頼久が自身の子息を本家当主に据えようと画策する。これを察知した元久の弟・島津久豊は元久の位牌を奪って8代当主となった。これにより伊集院氏との対立が深まり、また伊集院氏に総州家が助勢したため、またも領国内に内紛(伊集院頼久の乱)が起こったが、最終的に久豊は伊集院氏を降し、また総州家を滅ぼすことに成功。島津氏の守護領国制を完成させた。, 9代・島津忠国の代になると、島津氏は守護大名として確立し、比較的安寧な時期が続いたが、大小の内紛は散発していた。特に忠国の弟である島津用久(好久・薩摩守)が声望を増したため、兄弟間の対立が起こった(なお、内紛の鎮圧に失敗した忠国が家督を一旦用久に譲ったものの、その後忠国が当主への復帰を図ったとする説もある[7])。この争いは中央で6代将軍・足利義教との権力闘争に敗れた大覚寺義昭を討った忠国に幕府が味方したため、好久が降伏し、忠国の勝利に終わった。この際に忠国は好久に薩州家を立てさせ、ある程度の譲歩をしている。忠国と好久の対立は解決されたものの、家中の掌握には失敗して家臣の反抗を招き、事実上の引退に追い込まれた[8]。, 10代・島津立久の時代には応仁の乱が勃発し、島津氏は東軍に属した(但し派兵せず)。11代の島津忠昌は桂庵玄樹を招聘して薩南学派を起こすなど学問を好んだが、領国内の一族・国人が立て続けに挙兵したため、世を儚んだ忠昌はついに自害して果てた。その後も12代・島津忠治、13代・島津忠隆が継承したが、いずれも早世したため、国内の島津氏一族・国人、大隅の肝付氏、日向の伊東氏を押さえることは叶わず、守護家の島津氏は全く弱体化してしまっていた。, 室町時代後期に入ると、領域内各地の国人や他の島津一族による闘争が加速化され、さらに薩摩大隅守護家は衰退する。, やがて島津氏一族の中から伊作家の伊作忠良と薩州家の島津実久が台頭して他家を凌駕した。, 忠良の子の貴久は一時期薩摩大隅守護家の14代忠兼(後の勝久、12代忠治・13代忠隆の弟)の養子として迎えられる。しかし勝久は実久に誑かされ、守護復帰を目論んで貴久との養子縁組を解消した。ただし、近年の研究では傍流から当主になった勝久と重臣達の確執の存在や勝久に反発する重臣たちの中には貴久や実久を擁立する動きがあったこと、実久が一時期守護家当主および薩摩大隅守護として迎えられて国内をほぼ掌握していた時期が存在したことが明らかになっている[9]。, その後、勝久は実久により薩摩を逐われて、母方の実家である大友氏を後ろ盾として頼み豊後国へと亡命する。, 伊作忠良・貴久親子は実久と守護職を争い、遂にはこれを武力で退け、薩摩・大隅を制圧した。前述の研究では、この際に実久が重臣たちの擁立によって勝久に代わって守護に就任した事実は消されて、反逆行為として書き直されたと考えられている。, 15代貴久(伊作氏出身)は内城を築き、修理大夫に任ぜられた。また、嫡男(後の義久)に将軍義輝より偏諱を受けている。貴久の嫡男である16代・島津義久の時には、日向の戦国大名である伊東氏を駆逐し、島津氏による三州の再々統一を成し遂げた。, 1578年(天正6年)の耳川の戦いにおいて、九州探題の大友氏に勝利する。以降、大友は衰退の一途を辿り始め、それを証明するかのように、大友が菊池氏より守護職を簒奪していた肥後国より名和氏と城氏が島津氏へ誼を通じてくる。義久は天草五人衆を従属させると、宇土半島の阿蘇氏勢力を駆逐し名和・城両氏への支援路を確保、北上への足掛かりを築いた。さらに1581年(天正9年)には人吉の相良氏を降伏させた。, そして大友衰退後に九州北西部に強大な勢力を誇っていた肥前の戦国大名・龍造寺隆信との、1584年(天正12年)沖田畷の戦いでは、龍造寺氏も撃ち破り、九州最大の戦国大名へと昇華していく。龍造寺氏を破ったことで、大友から龍造寺に鞍替えしていた肥後の豪族達も島津方に転じ、残る肥後北中部の阿蘇氏と、その被官である甲斐氏の拠点も陥落させた(豪族としての矢部・阿蘇氏は滅亡し、その後、大宮司家として再興)。島津軍が瞬く間に快進撃を行えたのは、鉄砲の存在と、それを実戦で培い磨き上げた巧みな鉄砲戦術が大きかったと考えられる。, 義久は3人の弟(島津義弘・歳久・家久)や優秀な家臣団をそれぞれ見事に使いこなし、九州のほぼ全てを(豊後・豊前のごく一部を除き)手中に収めるなど、戦国大名島津氏として九州最大版図と勢力を築く。, しかし間もなく1587年(天正15年)、かつて北部九州を支配下に収めていたが、島津氏との決戦に敗れてからは没落する一方であった、豊後の大友義鎮の嘆願による豊臣秀吉の九州侵攻を受ける。島津軍は秀吉の権勢を持って勢いづく豊臣連合軍との前哨戦では勝利を収めるが、第二波の攻防では40カ国に近い諸国に号令をかけ、25万以上もの大量兵力を動員してきた秀吉軍との領国内での総力戦は避け(義久は日向から秀吉は攻めてくると予想し、日向口に主力部隊を配備した戦術を取っていたが、意に反して秀吉は肥後口から攻めてきたことが降伏を決断した要因とされる)、木食応其の仲介のもと降伏する。本領である薩摩・大隅2か国・日向諸県郡は近衛前久の仲介や交渉の結果、全領安堵される。, 朝鮮の役が終わると、目覚しい泗川の戦いなどの軍功を大いに評価され、島津氏は豊臣政権から5万石の加増を受けることになる[注釈 3]。これにより、島津家は56万9千石余(文禄年間に行われた石田三成奉行による検地の結果)から61万石余となり、徳川氏(255万石)・上杉氏(120万石)・毛利氏(112万石)・前田氏(84万石)[10]に次ぎ、島津氏は豊臣氏とは以前敵対しながらも宇喜多氏・伊達氏を抜き、豊臣政権下で第5位の地位に就く大大名となる[11]。, 関ヶ原の戦いでは、島津義弘は行き違いで西軍に属し徳川家と敵対関係に陥るも、島津宗家最高責任者である島津義久が徳川家康と約3年に及ぶ戦後交渉にあたり武備恭順の態度を取るも、近衛信尹や家康側近の井伊直政や山口直友などの擁護もあり全所領安堵を認めさせる。以降、薩摩藩として幕藩体制に組み込まれることとなる。また分家により日向佐土原藩が成立した。大坂の陣では2度とも合戦には参加せずにいたが、島津氏により関ヶ原の戦いで敗れた西軍副大将だった宇喜多秀家が薩摩で匿われていた経緯から、島津氏を頼って戦死したはずの豊臣秀頼や真田幸村が秘かに大坂を脱出して九州薩摩に向かったという噂が京の都や大坂で信憑性を持って流れた。江戸時代初期には徳川家康の了解のもと、初代薩摩藩主・島津家久は琉球へ侵攻して奄美群島を領有し、琉球王国を支配下に置いた。島津家では藩独自の検地が数回実施され、前田(102万石)[12]・越後松平(75万石)に次ぐ徳川政権下で第3位(松平忠輝の改易後は前田家に次ぎ第2位)、72万石余の大藩となる。その後、石高の高直しなどにより、表高は77万石となる。薩摩守の官名を独占し(斉興など大隅守も使用)、従四位上左近衛権中将が極官となった。, 幕藩体制下にあっては、宝暦治水に代表される幕府の弱体化政策など圧迫を受ける一方で、徳川綱吉養女・竹姫が島津継豊の後妻として嫁いで以降は、寔子(11代将軍・家斉正室)、敬子(篤姫)(13代将軍・家定正室)と将軍家と婚姻を通じ、縁戚関係をも深めることたびたびであった[注釈 4]。島津家は武家でありながら、江戸時代265年通し将軍家御台所を二人も出したことは異例である。また長命と子孫に恵まれた当主が多かったため、継嗣問題などへ介入されることがなく、幕府との関係は友好的かつ安定的に推移した。, 幕末に至って、膨張する西洋帝国主義に対抗すべく、28代島津斉彬の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興した(集成館事業)。参預会議の失敗で薩摩藩はそれまで推進してきた公武合体や公議政体などの幕府改革路線(島津幕府)を捨て、藩内より尊皇倒幕の志士を輩出、徳川将軍家と深い縁戚関係にありながら、外様で反徳川の毛利家と薩長同盟を結び、倒幕の中心となる。, 鎌倉時代以来、鎌倉幕府の名家島津氏は相馬氏、相良氏、宗氏、南部氏と並び、明治まで、700年近くにわたり同一の国・地域を治め続けた、世界でも稀有な領主である。明治に至り、島津忠義の本家と、実父島津久光が維新後自ら分家した玉里島津家の2家に公爵が授爵される。他、有力分家に昭和天皇第5皇女清宮貴子内親王が嫁した佐土原島津家(旧佐土原藩主家、幕末時2万7000石、伯爵)がある。その他多数の分家が男爵に叙爵された。, 昭和天皇の皇后香淳皇后は島津忠義の七女・俔子の娘で明仁上皇の母方の祖母でもあり、上皇の妹の清宮貴子内親王も島津家に降嫁しており、明仁天皇からは皇室と深い縁戚関係にあることが語られている[13]。, 島津義弘を第17代当主とする史料の初出は、幕末に編纂された『島津氏正統系図』と考えられている[注釈 9]。これ以降、島津家の系図はこれを基に作られ「義弘=17代当主」という認識が定着していった。また秀吉の九州征圧後、義久に大隅を、義弘に薩摩をそれぞれ蔵入地として宛がったことも義弘が当主であるという認識を補強する材料となった(島津=薩摩という印象から、「薩摩を与えられたのだから当主なのだろう」という見方ができる)。, しかし1980年代に入ってから、島津家当主の証しである「御重物」の研究が西本誠司によって進み[15]、当主の地位が義久から忠恒に直接譲られていることが判明すると、義弘は17代当主ではなかったという学説が山口研一や福島金治ら多くの研究者に支持されるようになった[9][16]。以降、義弘は「当主であった説」と「当主ではなかった説」が並列するようになった。, なお、島津家関連の物品を所蔵・研究・展示している尚古集成館では系図重視の観点から義弘を第17代当主と認定していたが、2004年に尚古集成館文化財課長で鹿児島大学法文学部非常勤講師の松尾千歳も義弘は当主ではないとする論文を発表した[17]。尚、現在も続く当の島津本宗家および当の尚古集成館自体は2016年の現在も義弘を17代当主としている[14]。, また、島津氏の家督継承に関しては、室町時代中期に島津忠国が一時期に弟の用久(持久)に家督を譲っていたものの最終的に家督を取り返したとする新名一仁の説[7]や戦国時代に島津勝久を追放した薩州家の島津実久が宗家重臣の支持を受けて家督を一時継承したとする山口研一の説[9]が出されており、島津本宗家および尚古集成館の見解とは異なる変遷像が描かれつつある。, 一番格上は御一家(ごいっか)と称される島津の有力庶家で、薩州家・伊作家・相州家などに加え、北郷家と樺山家などもこれに類された[18]。また、6代氏久が子の元久に対し、「宗家と御一家の間に身分の上下は無く、特に和泉・佐多・新納・北郷・樺山の各氏は御教書を与えられた家であり、上下はないと心得るよう」言い含めており、少なからず元久の代まではそのような関係が続いていたようである[18]。, 続いて御内(みうち)と呼ばれる譜代被官・直属被官であり、初代忠久に従い九州へ下向した者、南北朝時代までに被官化された中小在地領主、若しくは御一家・国衆の庶家で、独立した所領を持たず被官となった者などがこれに類された[18]。, 続いて国衆(くにしゅう)または国方(くにかた)と呼ばれる者で、郡司や地頭などの国人領主を指す。土持氏や伊東氏もこれに類されていた[18]。, 公式文書署名は、島津家当主が足利尊氏の猶子となる室町時代初頭では「惟宗朝臣○○」、戦国時代から新田流源氏を名乗るまでは、近衛家の庶流として「藤原朝臣○○」と署名していた。江戸時代に入り徳川家の「松平」の名字を与えられ以後、幕府の公式文書などでは「松平薩摩守(変動有)○○」と書かれる(江戸時代中期以降、内部の公式文書などにおいては「源朝臣○○」と署名した)[注釈 10]。, 島津氏の定紋に使用された図案は、島津十文字(筆文字の十文字)、「丸に十の字」、「轡十字」などがある。いずれも十文字紋であり、轡紋や久留子紋とは区別される。替紋に「島津牡丹」(近衛家より拝領)や「五三桐」を使用する。また、『蒙古襲来絵詞』には十文字の上に鶴丸紋を描いた、島津久経の幟が描かれている[20]。信濃島津氏の長沼家の「轡十字」については「轡」として『米府鹿子』に載る。, 十文字の起こりについては諸説あり、2匹の龍を表したとするもの(『島津国史』)[21]、奥州征伐の際、初代・忠久へ源頼朝が2本の箸を取って十字を作り、これを島津の紋にさせたとするもの(『西藩野史』)[21]、鎌倉時代に中国の呪符の影響で、災いから身を守り福を招くため十字を切る風習があり、それを家紋とした。(『日本紋章学』)[21]などがある。, 室町中期に編纂された『見聞諸家紋』には島津十文字が掲載されているが、江戸時代初期の『寛政重修諸家譜』に掲載されている丸に十字(轡十字)の図案や「丸に十の字」の図案が定紋として使用されている。「関ヶ原合戦図屏風」(津軽家本)には島津十文字を描いた義弘の旗が描かれているが、豊久の旗には轡十字が描かれていることから歴史研究家の大野信長は、関ヶ原の合戦が行われたこの時期が筆文字の十文字から轡十字への変遷時期だと推測している[22]。フランシスコ・ザビエルが布教のために鹿児島に来た際、島津氏が「白い十字架」を使用していたことに驚く。という記録がある[23]。, 忠久???

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